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青木直美さん

今回のゲストは、医療ジャーナリストの青木直美さんです。
『全身がん政治家』与謝野馨・青木直美(取材・構成)文藝春秋

皆様にとって2つの意味で関心の深い本ではないでしょうか。
「全身がん政治家」与謝野馨・青木直美(取材・構成)です。
全身がん政治家というタイトルはショッキングなタイトルです。
全身がんというのは、再発を何度も繰り返しているという事と、政治家ががんと発表しているのは驚くべきことです。
政治家と病気、がんと言うのはタブーとされていました。
そのタブーと35年間付き合われていた方です。
与謝野さんは自分の政策が長年かかって成し遂げられたという一つの節目があり、この本を書かれたと書いてありました。
その政策とは、消費税を10%にするという税率を上げるという事を強くおっしゃっていました。
実際、具体化しそうな段階まで来たために本と言う形にしようとふんぎられたようです。
4つのがんと3度の再発があり、最初にがんを患ったのは39歳でした。
そのがんは、悪性リンパ腫が始めでした。
その後、直腸がん、前立せんがん、咽頭がんでした。
これまでがんと公表しなかったのは、政治家として当選を逃すことにつながります。
今でこそがん告知が当たり前であったが、当時は患者本人にもがんと告知しない方が多い時代でした。
そこで、ご自身で受け止められて、初当選でがんを患われました。
ご自身で悪性リンパ腫という病気を調べた時に、余命2年という言葉が目に入り、それが非常に胸に刺さったそうです。
政治家として将来性のない人には人はついてこない事になります。
そうならないためにがんを隠さなければならない。という事がありました。
検査自体に一人で行かれたため、本人が事実を知ることになりました。
そして、家族にも事務所スタッフにも伝える事はありませんでした。
一人で受け止める強さが与謝野さんにはありました。
与謝野さんは、文部大臣、通産大臣、自民党政調会長などを歴任し、安倍内閣では官房長官、麻生内閣では財務・金融・経済財政の3閣僚を兼務するなど多忙な日々を過ごしていました。
正解随一の政策通と知られ、筋金入りの財政再建論者であります。
この与謝野という姓は、与謝野鉄幹・晶子の孫に当たります。
自由奔放な人生を送られたイメージのある鉄幹と晶子ですが、与謝野馨さんとのイメージとは異なります。
与謝野鉄幹・晶子の二男の長男として生まれました。
馨さんの2人の息子がいます。
しかし、政治家という同じ道にはいかせないという思いがありました。
本人の気持ちもあったと思うのですが、現在は別の道を歩まれています。
世襲制が強い党にいたので、一代で出てくるのは難しいのはお分かりと思います。
そのような風潮のある時代に、馨さんは世襲ではない政治家でした。
本人がそのような流れだったので、息子にも政治家になりなさいという強制はなかったのではないかと思います。
また、病気に関しても息子には伝えることなく、自分を律するという意味では一貫していました。
地盤を譲りたいという思いがある政治家が多い中、馨さんは息子自身の意思を尊重する方針でした。
本を書かれたきっかけは、週刊文集編集長からお話を頂きました。
与謝野さんは患者であるが、医者にも話を聞ける方を探しているという事で、声を掛けていただきました。

35年がんと付き合って、辛い時代を勇猛果敢に勝ち続けてきた与謝野さんの体験を世に知らしめることは、社会的意味があるという事です。
がんは治る病気になりつつありますが、発見が遅れると難しい面もあります。
その中でどのように病気と向き合えばいいのかと言うこと、国政を担ってきた政治家としてのあり方を示しています。
政治家になったので、健康管理が大切だという事でメンテナンスをしてくれる医者を探して検査したところがんが見つかりました。
初当選の頃は血気盛んで、夢を持っている時の事でした。
闘病生活は、入院することはありませんでした。
入院すると病気であることがわかってしまいますし、当時の悪性リンパ腫は治療が難しいということもありました。
治療に15年抗がん剤治療を行い、並行して政治活動を行っていました。
奥さんにも面と向かって病気の話をしたことはありませんでした。
副作用に関しては、悪性リンパ腫は再発をしています。
その治療の方がつらかったようです。
落選した時の精神的ショックは大きかったようです。
落選なくして本当の政治家になれないという事が言われますが、与謝野さんは毎日支援者の方を回るという活動をされていました。
精神的にもきつい日を過ごしています。
再発した時の抗がん剤の副作用として、髪が抜け落ちてしまいました。
本人はそのことに関しては気にしていなかったようですが、病気が分かってしまうことなどの理由で回りの助言もあり、カツラを使用して政治活動を行っていました。
カツラ一つにしてもわからないようにしたいという気持ちになると思いますが、カツラの値段が高い事を話されたりするなど前向きな性格の持ち主でした。
最初の経験が後につながっているような気がします。
悪性リンパ腫で信頼できる医者に出会えたことが気持ちを強く持つことができたと思います。
がんとの向かい方であっても、政治との向かい方であってもとても実直であり誠実さがわかります。
政治家の秘書はよく変わるのですが、与謝野さんの事務所スタッフは長く一緒に頑張っています。
これは珍しい事のようです。
事務所を訪ねると一代家族のような温かさがあります。
直腸に再発ではなく、新たにがんが発生しました。
再発でなく早期で見つかったため速やかな治療が可能でした。
この時は、胆石として入院をしました。
大腸がんの場合は、奥様が先に結腸がんを経験していたためにこの際は家族にも伝えました。
与謝野さんの病歴をみるとずっと病気が続いています。
本当に大変な経験をされています。
大腸がんの時には、選挙に落ちてしまい精神的に辛い部分があったと思います。
選挙に落選したことで、長期入院することが可能となりました。
不幸中の幸いです。
このように受け止められることができるのは、素晴らしい事です。
何か問題が起こった時の受け止め方は、冷静に処理していく事が習慣になっていると聞きました。
母親のスケールも大きいですよね。父親は豪快だと書かれていました。
その中で育ったことがこの性格形成となっているのでしょうか。
前立腺がんが2003年に見つかりましたが、ホルモン治療から放射線を当てるという2段構えの対処法でよくなりました。
与謝野さんの病気の経歴を見ていると医療の進歩をみる事ができます。
咽頭がんになった時は、余命2年7か月を宣告されました。
この時、はじめて遺書を書いたそうです。
長いものではなく、A4用紙にマジックで書かれていました。
手術に向かう事や今後の事を書かれていました。
この文章は覚悟がうかがえる男性的な文章です。
派手な葬儀を望む方が多いかも知れないが、与謝野さんは質素に行うようにとありました。
この中にその人の人柄を感じさせてもらいました。
咽頭がんの手術により、声が出るまで長期間かかりました。
喉から固形物を飲み込むことができなかったために、奥様がスープを作ったりと栄養を摂っていました。
本人が点滴が好きではなかったことから周りは大変であり心配であったそうです。
復帰してすぐに麻生内閣の財務大臣につきました。その時は前立腺がんの後遺症で血尿がガンガン出たとありました。
それが続いている時期でした。
この血尿には非常に苦労させられたそうです。
自分ではコントロールできず、一度出てしまったら病院に行き洗浄しなければなりません。
これは相当痛いそうです。
これは、放射線を当てた後遺症ですので、治療した後遺症になります。
出血した血が尿管に塊ってしまう事があるので、洗浄しなければなりません。
仕事をしながら病院に多く通う事になりました。
海外出張には、医師、看護師を連れて行っていました。
その後、3閣僚を兼任するというハードな仕事を行います。
普段、取材を行うときもよどみなく話をしてくれます。そのまま書けば原稿になってしまう話し方をしてくれます。
答弁をしっかりとできる政治家は田中角栄だけだと言われていますが、与謝野さんの答弁も素晴らしいと称賛されていました。
選挙中に与謝野さんが倒れられたという事がニュースで流れたしまいました。
その時は、貧血として発表したのですが、その前日に血尿を止める手術を受けられていて麻酔がまだかかった状態で選挙活動をされていました。
本当の精神力の戦いとなりました。
病気になると動揺してしまい本来の自分と違う一面が出てしまう方が多い中で、常に自分の冷静さを保ちながら周りを励ましプラスに転じていく姿勢はなかなかできないのではないでしょうか。
がんが治るという状態まで持って行ける方は、なにか共通点があるのではないかと話を聞くことが多いのですが、それは、冷静さや楽観さ、楽しさを持って物事を考えられる自分をなくさないという所ではないでしょうか。
与謝野さんはその点を政治家としてだけでなく、病気に対してもそのような姿勢で向き合っていたのではないでしょうか。
患者であることに一生懸命になりすぎないという点もあります。