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初代内閣安全保障室長
佐々淳行さん

今夜のゲストは危機管理の神様といわれる佐々淳行さんです。昭和の時代、東大安田講堂事件やあさま山荘事件など、警察官として多くの大事件や要人の警護を指揮した佐々さんの手腕はその事件と共に歴史に残っています。

現在、評論家として活動していらっしゃる佐々さんは文藝春秋から出版された『菊の御紋章と火炎ビン』をベースに当時の皇太子ご夫妻に火炎瓶が投げられた沖縄ひめゆりの塔での事件をはじめとした昭和の記録と、これからの日本の危機管理についてお話を伺います。
『菊の御紋章と火炎ビン』
菅原:
沖縄県警自身もトップの人たちもなんとなくそういうムードがあったんですか。
佐々:
ありました。「やる気がないのかしら」と思うくらいね。だって、本土から2000名中核だのなんだのってのがヘルメットかぶったまま船に乗って行ってるんでしょ。
菅原:
2000名ってすごい数ですよね。
佐々:
フェリーにね、第六機動隊と彼ら中核とがいっしょに乗っていっちゃって。呉越同舟といいますかね、小競り合いはじまったり大変だったんですよ。
菅原:
それは大変な事件ですよね。
佐々:
その中核の学生達の代表を記者会見を県庁でやると。驚いたことに県警本部の広報課がこれをセットしてるんです。県警本部の中でね、「皇太子訪沖爆砕」とか記者会見やってるんですよ。
菅原:
「爆砕してやるぞ」って宣言してるんですか。
佐々:
そうなんですよ。
菅原:
普通だったらすぐ捕まえなきゃいけませんよね。
佐々:
立ち入らせてはいけません。今でこそだいぶ状況も変わったと思います。本土に対する愛情も変わってると思います。だけど、「昭和50年の沖縄はこうだったんだよ」という事実を書き残そうと思いました。
菅原:
そういった人たちといっしょに足並みをそろえ、呼吸をそろえて、お守りできる状態を作るというのは至難の業ですよね。
佐々:
至難の業でした。というのはね、アメリカ式になっちゃってるもんだから、17時15分になるとね警備会議やってる最中にね「それではお先に失礼いたします。」って沖縄県警の幹部が立ち上がるんですよ。「どうしたの?なんだよ、まだ警備会議やってるから」と言うと「勤務時間終わりました」と。
菅原:
帰っちゃうんですか。
佐々:
帰っちゃう。それからビジネスランチというのがないんですよ。みんな家帰っちゃう。そして、昼寝するんです。帰ってくるのが14時とかですね。その習慣が警備の真っ最中に出てきちゃって。
菅原:
当日にも出てくるんですか。
佐々:
出てくる。お昼寝も。
菅原:
あり得ないでしょ。
佐々:
本会場の警備というのは名誉の問題だから「沖縄県警にやらせろ!」とおっしゃるから、「ひめゆりの塔は警視庁なんかに絶対やらせない。我々でやるんだ。聖地なんだ!」と。ひめゆりの塔も会場も沖縄県警を主力として警備をしたんです。そしたら、会場の方、12時頃になりましたら、吸収関空機動隊というのの隊長が汗びっしょりになって走ってきてね、「大変です!沖縄県警がいなくなりました!」と。「「いなくなりました」ってどういう意味だ?」と。「もうじき皇太子来るんだぞ!」と。しょうがない九州カンキに駆け足って行ってね、警備につかせて、沖縄県警探せって言ったらね、みんな日陰に入ったり、クーラーの効くところ行って昼寝してるんです。当日ですよ。幹部が碁を打ってた。それでね、「どういうことだ!」って怒鳴ったらね、「昼休みです」って(笑)
菅原:
(笑)
佐々:
これが本当の姿。そういう姿をね、やはり歴史的な事実として残しておかないと。それで私は厳しくやりまして。しかし、それで恨まれるかっていうとそうでもないんですね。
菅原:
独特の感性ですね。
佐々:
「僕らのこと何て言ってた?」ってあとで聞いたらね、「本土の方はよく働きますね」って(笑)それを私は事実は残さなきゃいかんと思っておりましたが、さっき申し上げたように、"皇室のことを言っちゃいけない"、"沖縄に対する配慮"、この二つでずっと自重して書かなかったんです。ところが近年、皇太子妃の言動というのが、皇后にふさわしくないと私は思いまして、一言書かなきゃいかんなと。そうでないと、天皇制というのはたぶん21世紀で終わりだろうと。2番目はね、政治家、三木総理でしたけど、あまりに無責任。責任回避をします。
菅原:
この本の中では、三木総理の話がいっぱい出てきてね、おもしろかったですけどね。おもしろいじゃ済まないんですよね。
佐々:
それと、警察庁の上層部の日和見といいますか、責任回避ね。それと政治への迎合ね。「火炎瓶投げた」って局長が聞いた途端に、「これはオレのショカンじゃないから、今の生活安全局。保安部長に報告しろ」とか。報告を受けないんです。私の報告を受け取ってくれる人がいないんです。それで、僕は次長に報告。山本さんというのは立派な方でね、山本さんに報告をし、福田ハジメ国家公安委員長に私は報告しました。誰も取り次がないんです。
菅原:
ひめゆりの塔が聖域という言葉がありましたけど、聖域という言葉は警備する中で、事前にあちこち大きな穴が空いてるとかね、中まで覗いて火炎瓶派が潜んでないかチェックしなくちゃいけないところをさせてくれなかったというような話が出てますけども、それは本当なんですか?
佐々:
本当なんです。それはね、沖縄県警の幹部が反対してるんです。
菅原:
防空壕の中で最後、たくさん亡くなられましたよね。今も穴ありますよね。
佐々:
あとで聞いてびっくりしたんですけど、80mくらいあるんです。そこに二日前から彼らは潜んでたわけですよ。事前に検索してればあの事件はなかったんです。
菅原:
許してもらえればですよね。それは申し出されたんでしょ。
佐々:
もちろん。現場、あんなところを検索しないで警備の原則に違反しますから、それも沖縄が琉球大学とか、沖縄タイムズとか琉球新報も絶対許さないと。

佐々淳行

「危機管理」という言葉のワードメーカー。1954年(昭和29年)3月 東大法学部卒業、1954年(昭和29年)4月 国家地方警察本部(現警察庁)入庁、1954年~1965年 警視庁、警察大学校(助教授)、大分県警、埼玉県警、大阪府警、警察庁等に赴任、1965年(昭和40年)2月 在香港日本国総領事館領事 1968年~1975年 警視庁・警察庁 1968年7月に帰国後、警察庁・警視庁の調査・外事・警備課長、 監察官などを歴任 1975年(昭和50年)8月 三重県警察本部長 1977年(昭和52年)2月 警察庁刑事局参事官 1977年~1986年 防衛庁出向、防衛審議官、教育参事官、人事教育局長、官房長、防衛施設庁長官を歴任 1986年(昭和61年) 内閣総理大臣官房・内閣安全保障室長、1989年(平成元年) 昭和天皇大喪の礼を最後に退官