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建築家
安藤忠雄さん

今回のゲストは世界的な建築家の安藤忠雄さんです。建築界のカリスマと呼ばれる安藤さんは、これまでの人生と建築を語った初の自伝「建築家・安藤忠雄」を新潮社から出版されました。
限られた条件が厳しければ厳しいほど
クリエイティビティを刺激するものが出てくる
菅原:
限られた条件が厳しければ厳しいほど、頭をひねってそこにまた新しい喜びとか、クリエイティビティを刺激するものが出てくるんですね。
安藤:
やっぱりね、条件が整っていると考えなくても済むじゃないですか。だいたいエリートの二世議員がそうじゃないですか。二世の経営者もそうじゃないですか。条件そろってますからね。だから、あんまり考えないのかもわかりませんね。
菅原:
そういう意味では、条件が厳しいって意味では私たちがすごく親しんでよく通っている表参道ヒルズのモールがありますね。あれはまたすごくやさしげで、「安藤忠雄」って名前から受ける印象は、コンクリート打ちっ放しで光と影で構築的で男っぽいある意味では力強い、というイメージがあったんですけど、とてもやさしげで、なんかこう江戸情緒の町並みを楽しく歩いてるお祭りのような感じがあって別世界なんですよね。
安藤:
あれね、130人ほどの地権者がいたんですね。もともと住んでた人達。それに森ビルの森さんという人が多分30%くらいの権利を持っていたと。その人達との対話の中ではじまったんですが、私は三角形の広場は中に入れよう。一棟だけはどうしても復元したいからということで復元しました。これは数年後には全部が緑のツタで覆われるようにしようと。半分くらいは覆われてきているんですが。
菅原:
昔と同じになるんですね。
安藤:
同じにしようと。そういうふうにしておりましたら、森ビルの森さんがですね、安藤さん外が1/22の勾配だから中も勾配にした方がいいんじゃないかと。私は反対したんですけどはじめは。いろいろ模型を作ってみたりしたら、なるほどおもしろいなということで賛成をして、中の勾配のアイデアは森さんなんです。設計したのは我々。よく森さんがアイデア料払えよと冗談半分に言うんですが(笑)

その時にやはり、いろいろな意見を聞いてその中のいいものは取り入れた方がよいと。思って取り入れたものでありますが。
菅原:
歩いていくとね。一階から三階まではスムーズに上がれると。年取ってる人でもね、楽しいからなんとなく歩いちゃって「あそこの店行きたい」って見えるものですから、それでヨーロッパのブランドのような大きい入りにくいでしょブランドショップって。黒人の人がドアマンで立ってると余計入れないんですね。ところがここのは、駒込の商店街のような小さいんですよね。奥行きが。で、入りやすいんですよ。だから、日本的な情緒があって違う空間で楽しいですね。
安藤:
両方がスロープですから、上下に行けるのでおもしろいだろうと。だけど、いろいろな人達の意見、これは地権者もおります。その人達の意見もくみ取りながら、デザインは我々自分らの責任でやるわけですけども、あと2、3年たてば緑いっぱいに古い建物が覆われて、屋上には庭園作ってあるんですよ。その屋上庭園の3、40cm大きくなってきますのであと2年くらいたてば緑で覆われると。建物というのはできあがってから育てていかなければいけないと。育てられるようにしようと。いうことで、2年後、3年後、5年後とずっと育ってもらうといいなと思ってますね。
菅原:
建物が育つという発想は普通の建築で言われない部分ですね。作った時はテープカットみたいな感じで。
安藤:
私はね、建物は育てなきゃ行けないと思うんですね。私、兵庫県の淡路島というところで夢舞台という大きな施設を作って、その中にホテルがあるんですが、2002年にオープンしたんですけど、なかなか難しいなと思ったので毎年ね、作った人が2000人くらいいたんですけど、同窓会しようと。建築現場の人達。で、毎年同窓会をしてるんです。同窓会に350人くらい来る。

菅原:
すごいですね。
安藤:
それでその人達が全部ホテルに泊まる。その日はそのホテルは満室ですよね。そして、自分たちがやったところを見ていて悪いところは次の日にチェックして後日、修正する。現場で働いた人達と話をしてるんですが、「自分たちが元気のいい間はこの建物をずっと育てていくんだ。守っていくんだ。」という同窓会をしてるんですが、これはね、子供でも一緒で、育てられないやつが子供産むから問題起こる。だから、これから子供を育てるように自分たちの作った建物、自分たちの作った建物のある街を育てていかなければいけないと思うんです。

菅原:
ケヤキもあのように昔のままあってその古いアパートもツタに絡まれて、古い思い出と新しい楽しさが混在して育っていくすごく新しいコンセプトですね。
安藤:
本来、そういうもんだと思うんですけど、90歳も100歳も生きる時に自分が育った時に見てた建物がなくなると寂しいでしょ。全部残していくことは難しくてもイメージを残していけば、生きる喜び、歩く喜びね。街はあちこち歩いていかなければならない。と。その責任を我々がおおげさに言うと担っているんではないかと思っています。

菅原:
町おこしってよく言われるけど、成功例は少ないんですけど、すごく少ない中で箱物ばっかりで、それが風化して廃墟になっているところだらけの中で巨大なお金をかけていろんなイベントやったり、つぶれちゃったりっていうことが多いんですけど、その中でもうちょっと本質的なところで考えれば、その後100年町おこしに続いていくバトンタッチできるものを作れますよね。
安藤:
そうです。こういうのはお金の問題じゃない。思いの問題です。なかなかこの思いっていうのはエネルギーがいりますからね。

菅原:
だから、ひとつのものを継続的に耕し、育てていくのに20年、30年がかりを考えていかないと本当の活性化というか、本物が育つことは難しいですね。
安藤:
日本人の民度の高さの中に忍耐力、協調性、持続力ってあるとするとね、やっぱりこの日本人の民度の高さを生かしてこの難関を突破するのは多分日本人だろうと思うんですけどね。非常に難しい状況になってます。しかし、この難しい状況を越えていくのは考える力ですからね。その中では芸術も音楽も役に立つなと思いますけどね。

安藤忠雄

昭和16年大阪生まれ。独学で建築を学び、昭和44年に安藤忠雄建築研究所を設立。昭和54年日本建築学 会賞、昭和60年アルヴァ・アアルト賞、平成元年度フランス建築アカデミー大賞(ゴールドメダル)など。瀬戸内海の破壊された自然を回復させるため中坊公平氏と共に「瀬戸内オリーブ基金」を平成12年 に設立。アメリカイェール、コロンビア、ハーバード大学客員教授歴任。平成9年から東京大学教授、 現在、名誉教授。